
三輪田米山(みわだべいざん)は、1821(文政4)年、伊予松山の日尾八幡神社神主三輪田清敏の長男として生まれ、1908(明治41)年に没した、伊予の神主である。また米山は、明治維新をはさんだ激動の時代に生きながら、王羲之を初めとする書の古典に深く学び、独自の書風を形成した。2008(平成20)年は、その没後100年にあたる。
米山の書家としての名声は、存命中から伊予一円に高く、それは、伊予豆比古命神社(椿神社)の注連石に記されている「龍游鳳舞」をはじめとするおびただしい数の神社の注連石等の揮毫に現れている。その書は、とらわれのない破格の造形美を現出し、爆発的なエネルギーにみちた、古今に類を見ないものである。しかしながら、中央書壇に身をゆだねることをしなかった米山は、地方伊予の書家としてその87歳の生を閉じたのである。
大阪の実業家山本發次郎は、画家佐伯祐三の発掘等で著名な蒐集家であるが、米山を「あの明月、良寛、寂厳、慈雲らに劣らない、あるいはどうかすると大字においてはこの四者にも勝り、格においては慈雲に次ぐものではないか」(「無名の書聖 三輪田米山」)と賞賛し、米山書を積極的に世に出した人物でもある。そういった動きの中で、米山は戦後、書の専門雑誌『墨』『墨美』等にも特集されるなど、一定の評価を得てきた。元愛媛大学教授浅海蘇山著『米山 人と書』(墨美社 1969)、横田無縫他著『三輪田米山游游』(木耳社 1994)等の学術書、専門書、また、米山伝として高市俊次著『瓢壷の夢』(新人物往来社 1987)も世に問われている。
さらに近年は、愛媛県立美術館による「開館20周年記念 三輪田米山名作展」(1990)、成田山書道美術館による「三輪田米山の書」(2004)、日本書芸院役員展特別展「雄大・純朴の書 米山」(2006)、愛媛県久万高原町立久万美術館による「伊予の豪傑 吉田蔵澤・三輪田米山」(2006)など、全国的に評価が高まりつつあると言ってよい。内外の研究者による研究も進められている。
米山は酒を愛し、書を愛した。そして伊予の人たちは、米山とその書を愛してきた。米山ほど、伊予の地に土着し、伊予の人たちに愛され、伊予の書文化を支えた書家はいない。
「詳細・米山略年譜」
作成・高市先生(PDF)

三輪田米山(みわだべいざん)は、1821(文政4)年、伊予松山の日尾八幡神社に生まれ、1908(明治41)年に没した、伊予の神主です。米山は、明治維新をはさんだ激動の時代に、勤王の志士を標榜しつつ、伊予松山の神社を守って、その生を終えました。それは、弟元綱とは、結果的に大きく異なる生でした。米山は、終生伊予の地にあって、王羲之を始めとする書の古典に深く学び、独自の書風を確立しました。その書は、とらわれのない、爆発的なエネルギーにみちた造形美を現出し、古今に類を見ないものです。
伊予の人たちは今日まで、書を愛し酒を愛した米山の人と書をいつくしんできました。それは、椿神社の「龍遊鳳舞」、日尾八幡神社の「鳥舞魚躍」などを代表とする、松山近郊にある約80基ほどもある米山石文が物語っています。
しかしながら、米山の本当の値打ちを、私たちが共有して意識しているかというと、実はそれほどでもないように思われます。
私たちは、米山のすばらしさを改めて確認し、後世に伝えていくべきだと考え、顕彰会を立ち上げました。この活動を通じて、ひとりでも多くの人たちに米山の真価を受け止めていただければと願っています。
米山顕彰会会長 三浦和尚(愛媛大学教授)

- 米山という芸術文化を正当に位置づけ評価する。
- そのため、研究・展覧会等の事業を行うとともに、作品の維持修復などにつとめる。
米山をめぐっては、これまで多方面での学術研究や作品展等が行われてきたが、文化の継承という大きな観点で各組織が協同して物事を進めるといったことはあまりなかった。今後、こうした状態が続くと米山の書を後生に残すことが困難になるばかりか、ひいては文化遺産の喪失ということにもなりかねない。
本会は、米山を顕彰することを目的に、研究・展覧等により、米山を広く普及するとともに、史跡の整備や作品の修復、維持等を事業として行うことにしている。